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愛と狂気、倫理と宗教。
2010年06月12日 (土) | 編集 |
劇団破戒オー!!!」さんの「断罪アナグラム」、行ってまいりましたー。
……意外な展開の舞台でしたが、結構愉しませていただきました。

感想を一言でいえば、「愛と狂気、倫理と宗教」を考えたくなったなと。
まだ纏まりきっていない面もありますし、
千秋楽が終わっていないので、詳しい感想は改めて追記します。
(最終的に纏まりきるかどうかは別。)

予想通りではないですが、期待通りの舞台。
伊東さんの役者としての違った面という意味でも。
感動とか感銘とかではなく、「良い素材」というか何か来るものはあったなぁ。
役者さんをはじめとした、皆さん、ありがとうございました。

(直接このお礼を、と伊東さんのブログに初コメしたら送信が不具合……
アンケート、焦らないで、御礼も含めてきちんと書いてこれば良かったorz)


----- --------
[追記:2010/06/14 23:59]
201006121348000.jpg
米澤さんと同じところで写真→(*)

舞台の感想に入る前に、会場の様子など触れておきます。
会場の大きさは観客は50人弱ぐらい入る広さ。
土曜日は昼も夜もほぼ満員でしたので40人強ぐらいかな。
伊東さんには、伊東さんのブログでよくお名前を見る方から大きなお花も来てて、
また役者さんへの差し入れなども結構ありました。
……今度のライブには小さなお花ぐらい持っていってみようかな……。

伊東さんはドドメ色ずきんちゃんという、漫画(妄想)の世界の女の子。
基本的には天真爛漫な女の子でしたが……。
他にも風子ファンの一人、結婚式のお客さんなども演じられてました。
舞台と観客の距離は近いので、公演前は「キュンキュンしちゃわないか」と思ってましたが(笑)、
役者としての伊東さんの雰囲気や、舞台全体の雰囲気がそんな気を起こさせませんでした。




では、感想のほうを少し。
特設ページのほうで、台本が公開されてますので、まずはそれを読んでいただくとして。


この台本の最後で、カナコがアキオを食べる場面、そして肋骨の独白があります。
実は舞台(土曜日)では、肋骨の独白はタツナガの独白に変わっており、
そのタツナガの独白、絞首刑を処される前というのは同じなのですが、
「人が人を食べること」ではなく、「男がブラジャーをつけること」になってます。

ですから、実際の舞台では、カナコがアキオを食べる場面、タツナガの独白で幕を閉じました。
この二つの場面、さまざまな要素が交錯した話の中で、大事な場面だったと思います。



まずは後者、タツナガの独白について。

「今回は恋愛物語」との特設ページでの紹介。
でも、初っ端の肋骨の独白に、恋愛ではなく、違ったところが強く反応した気がしました。
……何か違和感というか、既視感というか、何というか。
交錯した話のつくりのせいもあり、自分が反応しているものが何なのか、よく分からなかったのです。
そんな気持ちでいながらも、進むお話。
そして風子のライブ終わりに現れた肋骨が発したこの言葉。

「罰は罰であると同時に、罪を浄化するための、救済でもあるんです」

―あっ、オウムだ。

「救済」という言葉で、やっと既視感の正体がわかりました。
オウム、宗教だ、と。

浄化され天国と繋がる
愛する人と同化する
変化は罪、外気が魂を穢す
罰を与え、浄化し、救済する

シャンバラ、絶対的実在との合一、出家制度、カルマ。
どれもオウムで唱えられた論理です。
(正確には差異はあろうかと思いますが、論理の本質は同じだと思います)

肋骨の考え方は「狂気」、おそらくは極端な程度のものです。
ただ、舞台にしか存在しない、純粋に想像上の「狂気」ではなく、
実在している「狂気」、少なくとも現実性を否定できない「狂気」だということです。
それを描いているかもしれない、ということに、はっとした思いでした。

ただ、現実性があるとしても、それは壁の向こうの「狂気」とも言えそうな気がします。
それを最後に決定的に破ったのが、タツナガの独白だと思うのです。


タツナガの独白は、一番初めの肋骨の独白をなぞったものです。
違うのは、冒頭で述べたように、「人が人を食べること」ではなく、
「男がブラジャーをつけること」となっているところ。

「男がブラジャーをつける」

これは「狂気」のカテゴリにあるものですが、
たぶん「狂気」ということに違和感を感じるのも事実です。
いうなれば「軽い狂気」、まぁ「変態」ってところでしょう(笑)。
コミカルさを感じるように、これは自分がそうでなくても、
理解できないことはない、手に届きうる「狂気」、といえそうです。
ある意味で、「正常な集団」「正常な現実」と繋がっているものです。

それを肋骨の「人が人を食べること」に関して問題提起した初っ端の場面を
下敷きにして、同様に問題提起させる。
そのことで、観ている者に対して、
「人が人を食べること」と「男がブラジャーをつけること」に
補助線を意識させているのではないかと思うのです。

それはつまり、「正常な集団」「正常な現実」にいると思っている「我々」から、
「男がブラジャーをつけること」を見ていると、
その補助線上、延長線上に「人が人を食べること」が見えてくる。

同一線上に肋骨の考え方が存在しているということは、
それを「狂気」とすることに同意するにせよ、
それは相対的な「狂気」であって、絶対的な「狂気」ではないということ。
連続性の中にある「狂気」であって、しきい値の向こう側にある「狂気」ではないということ。
単にチューニングの問題で、アクセス可能な帯域にそれは存在しているかもしれないということです。
つまり、壁などないと。
それを示唆していると思うのです。


台本だと、改めて肋骨の独白でしたが、タツナガの独白に変更したのは、良い選択だったと思います。
肋骨の独白では重さを残したままの終わりですし、その相対性が見えなかったと思いますから。
加えて、「倫理や正義の名のもとに一番暴力的である死刑の舞台」である絞首刑台で、
二人に述べさせるというのは、その暴力性と、「狂気」との鋭い対立を想起させる上で
非常に効果的だったと思います。



もう一つ、触れたい場面があります。
少し戻って、カナコがアキオを食べる場面について。

カナコはアキオをどうしても食べられず一言、
「…ごめん、私、食べられない…だって…私…ピーマン嫌いなんだもん」

これには、観ていて、非常に腑に落ちないものを感じました。

この舞台のテーマの一つが愛を根源とした「狂気」。
それは上でくどくど述べたとおりです。
そこに別の角度から奥行きというか、別の次元を加えているのがアキオの「妄想」。
「現実」からの単方向性と捉えられるのが一般的な「妄想」を、
ドドメ色ずきんちゃんと現実の間に双方向性を持たせながらテーマを扱うことで、
観客にその奥行きを感じさせながら話が展開していたと思います。

その最後の締めとなり得たのがカナコの台詞だったのかなと。

ピーマン嫌いというのは、トシノブとヤスエのやりとりがありましたから、
その台詞で終わるのは、わからないではないではありません。

ただ、あの場面での台詞は、「ピーマン嫌い」ではなく、「ベジタリアン」と言わせるべきです。

アキオの妄想を知らないはずのカナコが、ドドメを食べられなかった狼の台詞を口にすることで、
「現実」とアキオの「妄想」に最後の交錯を施すことで、その奥行きがはっきり意識できたはず。
肉を食べられない理由としてもすっきりしますし、
締めにこの場面を持ってきて、「ピーマン」の台詞ではやや決めが弱いでしょう。
もしかしたら私が気付いていない意図があるのかもしれませんが……。




最後は批判めいた書き方ですが、でもホント面白かった。
伊東さんを目的で行ったのですが、作品自体を十分楽しませて頂きました。
まだまだ頭の中で纏まりきっていない部分はありますし、
いろいろ考えていく上で、良い素材を頂いた気がします。
伊東さんに関係なく、次回の公演も観にいきたいと思いますー。

----- --------
[追記:2010/06/20 23:59]
捕捉が遅れましたが、伊東さんの公演に関する記事が。
おわったー(☆kumiko diary☆)
文章から、充実感に溢れるご様子が伝わってきます。
素晴らしい舞台を見せていただいたことに感謝しつつ、
ゆっくり休んでいただき、また素晴らしいライブを拝見したいなぁと思う次第です。
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